感じたり思った事を書いて行きます。 時には秘伝などを書く事も。 空手や色々な趣味の話も。

  Adept・Mentor 島津成晃の独り言のナビゲーター   トップページ > 2006年09月  

未来への道筋

2006 - 09/30 [Sat] - 02:30

 人間の可能性は無限大です。
私は人間には不可能はないと思っています。
と云うよりも信じています。
知らない事は学んで行けば良い。
解らない事は解明して行けば良い。
出来ない事は、訓練して行けば必ず出来る様になります。
今すぐに出来なくても、いつか出来る様になりたい、そう思ってポジティブでいれば、不可能は可能になると信じています。
そうやって、人類は文明を発達させ、未だ未知の世界とされている深海や宇宙へも足跡を伸ばしています。
例えばオリンピックの記録、過去と比べてもどんどんと記録は伸びています。
私の好きな空手や格闘技の世界でも、新しい技が生れ、飛躍的に進化して来ました。
世界は広いと言われていましたが、交通機関やインターネットの発達により、世界は狭くなって来ました。
近くなったと言っても良いでしょう。
曾て北回りで23時間もかかったヨーロッパも、今は12時間で行く事が出来ます。

 文明が発達すると、人類は退化すると思っている人も多いと思います。
便利になればなるほど、人は自らが持っている動物としての能力を使う事を怠り、心を失う。
確かにそう云う側面もあると思います。
が、人間はそれほどバカではありません。
だからこそ、仏教を始めとする宗教や哲学は厳然として残り、それどころか深く追求され続けています。

 一面的なものの見方をするのは簡単です。
最初から不可能と諦めて仕舞うのも簡単。
人間は愚かだ、誰々はこうなんだと切り捨てるのも簡単。
だから、型に嵌めて、ルールで縛らなければいけないと決め付けるのも簡単です。

 でも、人間は自由だからこそ、大きく羽搏けますし、夢を持って楽しんでいるからこそ、不可能を可能にして来たのだろうと思います。
最初に否定ありきは、人間の可能性を否定する事です。
今、駄目な事は、その中で苦しんだり、辛い思いをする事で学んで行く事も沢山あります。
経験してこそ解る事も多いのです。
最初から安全な道ばかりを求めても、最初から完璧を求めても、人間には限界もあれば、ステップもあります。
まず、今の自分を、今の誰かを、受入れ、肯定しましょう。
そこからどうポジティブに歩んで行くかが大切なのですから。
駄目・ダメではなく、どうしよう、こうしよう、と未来へ眼を向けて下さい。

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信頼

2006 - 09/29 [Fri] - 02:38

 私は長い間、一切の宣伝をせずに仕事して来ました。
ある時、マスコミでも有名な占師さんにお会いする機会がありました。
その時に、その方のマネージャーから「人を救う人は世に溢れている。そしてどこに頼れば良いか、解らずにいる人も多い。先生も、宣伝と云う意味ではなく、ここにいるのだよと世に情報発信してあげる事が、義務なのではないですか?」と云われました。

 それを聞き、ある意味では頑なに宣伝を拒んで来た私も、「なるほど、その通りだ。」と納得しました。
現実に、あちこちの霊能者や占師を渡り歩いた人が私の所に辿り着くと云う事も、当時から数多くありました。
基本的に口コミだけでやって来ていましたが、それでもそんな相談者が来ていた事から、その方の言葉に感銘を受け、そしてHPを立ち上げました。

 それ以来、もう7~8年になるでしょうか。
HPを介して御相談される方も増え、中にはお出でになって面接され、また月例会に参加されている方も増えました。

 人の縁と云うのは何を介し、どこで繋がるか、本当に不思議です。
多くの人達が口コミで、また私のHPやブログを介して御縁が出来て来ました。

 私が成果をきちんとあげて来たからと云うだけでご縁は広がりません。
プロであれば私でなくてもきちんと成果をあげておられる筈です。
私がこうして仕事が出来るのは、私と相談者との間の信頼関係に他ならないと思っています。
人が人に悩みや苦しみを相談する以上、助けを求める以上、それは互いの信頼関係の上に成り立ちます。
どんな方でも、HPやブログで私の事を読んだり見たりしても、それだけで信頼に足ると確信出来る筈はありません。
メールで話し、面接でお会いし、その上で出来上って行くものだと思います。

 優しいから、あるいは厳しいから、答が明確だから、力があるから、それだけで信頼関係は出来ません。
可能な限り、御相談者が理解出来る説明をし、明確にお答えし、惜しみなく力を発揮し、何よりも真剣に本気で我が事の様に思う心が伝わって信頼関係が出来上って行くのだと思います。
ですから、時には真剣に叱りますし怒ります。
また、心から相手を思い、一緒に涙します。
喜びも悲しみも分かち合います。
勿論、同時にクールな眼で分析し、霊視して、明確なお答えを常にしていますが。

 こうあらねばならないと一つの価値観や教えを押し付け、規則で縛り、その方の現在をあたかも否定して仕舞う様な方法は、アドバイザーとして、また指導者として失格です。
逆に、漠然とした答しか出来ないのも、慎重と云うよりも無責任です。
最も重要なのは、相手に安心感を与え、元気を与え、希望を与えてあげる事であり、気持ち良く、楽しく次へのステップを示唆してあげる事です。
とは云え、時には手に負えない愚か者もいます。
そう云う方は、どうぞ他へ行って下さいとしか言えませんが。(苦笑)
遠慮なく、私はそう云う方を叱ります。
本気でその方の事を思うから。
でも、そう云う方には通じないですけどね。

 人と人が本当に信頼し合って生きて行ければ最高ですね。
私もその中の一人でいたいと思います。

大宇宙

2006 - 09/28 [Thu] - 02:35

 今日、TVで望遠鏡の話をしていました。
ハッブル望遠鏡の話ですが、宇宙空間に巨大な望遠鏡を浮かべ、大気の揺らぎのないクリアな宇宙の像を捉えていると云うお話。
130億光年先の、ビッグ・バンの時の名残の光が見えると云います。
想像もつかない、とてつもない距離ですね。
そして、宇宙は現在も膨張し続けていると。

 考えてみれば、我々の住んでいる地球も太陽系の惑星であり、太陽系は銀河の辺境の地でしかありません。
宇宙はとてつもなく広いですね。
私の好きなスター・トレックでも未知の世界へ新たな宇宙と文明を求めて旅すると言っています。

 私達人間は、宇宙の辺境にある銀河の、そのまた辺境にある太陽系の中の一つの惑星に住んでいるに過ぎません。
そう考えると、人間はとてもちっぽけであり、人間の考える事もとても小さな事なのではないかと思います。
だからと云って、悩みが解決する訳ではありませんが、考え方を変えると気が楽になります。

 そして、人間は大宇宙に存在している地球に住んでいるのですから、宇宙の一部と云えます。
宇宙は遠くにあります。
が、同時に目の前にも、自分の中にも宇宙はあります。

 少し視点を変えて、大らかな気持ちになってみてはどうでしょうか。

被る

2006 - 09/27 [Wed] - 03:29

 このブログでも、掲示板でも良く出て来る言葉ですが、「被る(かぶる)」と云うのは、霊感のある人だけの現象だと思っている人が多いようですね。
確かに、霊感のある人は、他の波動や霊的なものや場所の影響を受け易いです。
それは、とても鋭く感度良いセンサーを持っているからです。
だから、人の心が伝わって来たり、人や場所の持つ波動を感じ取ったりします。

 ですが、霊感のない人にも被りはしっかりあるのです。
例えば、明るい人と話していたら、自分も気持ちが明るくなった。
逆に暗い人の話を聞いてあげていたら、自分の気持ちまで暗くなってしまって、立ち直れなかった。
ある場所に行くと、理由もなく気分が沈み、時には怒りっぽくなった。
そんな経験はないでしょうか?

 人間も動物である以上は、無意識に色々なものを皮膚感覚や匂いなどの五感で感じ取っています。
その影響を受けない筈はありません。
低周波公害などと云うものもある位です。

 そして、人であれ物であれ霊であれ、存在している以上はエネルギーを持ち、波動を出しています。
ならば、その影響は必ず受けるでしょう?

 只、被りと云うのは、同調と同じ意義も持ちます。
同調すれば、ダイレクトに相手から伝わって来ますから、被ると同時に理解も出来ます。
人を理解しようと思ったら、思い切って被ってみるのも一つの方法ではあります。
が、その後の自分の切り替え、クリーニングが出来ないと、ちょっと辛いものがありますね。
そう、被りが取れないと、段々と体調も精神状態も崩れて来ます。
やってみようと思う人は、どうやって気分を変えてリフレッシュするか、良くシュミレーションして下さい。

 気持ちが沈む人、体調が悪い人、そう云う人はまず医師の診断を受け、病的なものでない事を確かめて下さい。
その上で何もないなら、精神的なものから来ているか、あるいは被りかもしれないです。
一度、良く分析してみて下さい。

囚われない

2006 - 09/26 [Tue] - 02:54

 今日は仏教哲学の話でもしましょうか。

 御釈迦様って、凄いですよね。
2,500年も前に、深い深い哲学を確立された人ですからね。
多くの宗教がある中で、仏教はある意味では論理宗教と呼ぶに相応しくて、凄く哲学的ですね。
東洋でも道教や儒教などを含めて色々な宗教や哲学がありますが、その多くに仏教の考え方や思想・哲学の影響を受けている様に思います。

 誰でも知っている仏説摩訶般若心経、そこには色即是空・空即是色と書かれています。
眼に見えるものは即ち空であり、空が眼に見えるものを形作っている。
全てのものや現象は常に移り変わり、変化している、と云っています。
だから、囚われるな、と。

 自分の立つ場所によって見え方も違えば、善悪も違います。
現実的な話をすれば、戦国時代では敵を倒し、殺した者は英雄です。
が、平和な現代では、それは罪となります。

 自らの成長を目指して上を目指す事は、他を見下す事ではありません。
上を目指す事、そこには意味があります。
魂が向かう自然な欲求だからです。
下へ向かう事、それは自らの欲望や狭い価値観によるものであり、大きな目で見れば、それは不自然なのです。

 悟った者にとって、上も下も、善も悪も、両立しています。
両方があるから、陰陽があるから、世界は成立します。
では、上も下も意味がないのか?
違います。
上には上の、下には下の意味があります。

 が、仏教ではその意味をしっかり認識し、意味を知って、その上で囚われるな、と説きます。
意味がないのではなく、意味をしっかり知りなさい。
その上で、固執するなと云うのです。

 何だか禅問答ですね。
でも、だからこそ、面白いですね。

自己表現

2006 - 09/25 [Mon] - 03:14

 今日は月例会でした。
護身法をやり、上級者は九字法と声明を詠んで、その後に勉強会。
今日も相変らずの話の広がりで、テーマからどんどん広がって行きました。
ただ、今日は特別に勉強会をテープに録らせて戴きました。
「霊能者と仲間達」のブログでは様々なテーマで色々な参加者と対談したものをブログに載せていますが、現在は私の英国旅行記を載せております。
次回は、勉強会でどんな話をしているのか、またとても盛り上がって楽しくストレス解消になると云う事をお伝えしたく、同時に凄く深く、良い話を皆さんがしているのがその場だけで消えて行って仕舞うのが惜しいので、一度ブログに載せようと云う企画で、今回の勉強会を次回のテーマにする為に録音しました。
期待していて下さい。
本当に面白く、幅広く、深いですから。

 毎回、月例会で思う事ですが、こう云う場で積極的に発言する人、黙って聞いているだけの人、参加しているだけの人、また参加しない人、色々な人を見ていると、その姿勢に全てが顕れているなと思います。

 私は強制は決してしませんから、月例会も勉強会も「良ければ来なさい」としか言いません。
ですから、参加される方は自分の意思で、学ぼうと思っている方が来られます。
まず、そこに一つの選択があり、自分を変えよう、学ぼうとしている姿勢がとても貴重ですし、大きいと思います。

 次に、参加された時、積極的に発言される方は、見ていてもどんどん変化して行きます。
話す事、自己表現する事は、同時に伝える事であり、伝える為には自己を見つめる事です。
言葉に出す中で自分の中で整理されて行く事も沢山あると思います。
自己表現する、発言すると云う事は、自己の再認識です。
だから、どんどん成長するのだと思います。

 黙って聞いている方、参加しているだけの方は、ストレス解消でしょうか?
聞いて学ぶ事は大切ですが、それを全て覚えている事は出来ませんし、所詮は受け身です。
受け身は、消極的ですし、やはり成長のスピードは遅いですね。
どうせなら、積極的に話し、対話し、会話の中に入って行くと、もっと楽しいし、もっと学べるし、自分の再認識も出来ます。

 そんな事を意識しながら、月例会にお出でになってみて下さい。
きっと、楽しいですよ。

再会

2006 - 09/24 [Sun] - 01:44

 今日はお彼岸の行事をしました。
昨日から空気が重く、供養を予定している霊達が来ているのが分りましたが、「明日、きちんとしてあげるから大人しくしていなさい」と命じていました。
案の定、今日は朝から凄く多くの霊が来ていました。

 俗に、「本家、分家を合わせると1軒の家の先祖は7代辿れば2,000人」と云います。
と、云うことは・・・。
考えると凄い数になりそうですね。(苦笑)

 と云う訳で、三礼をし、護身法を切り、洒水加持、願文と続き、奠供(てんぐ)を読み始めた頃から、供養壇の灯明が異常に高く燃え始めました。
ちょうど、父の位牌の前にある蝋燭の炎が20cm以上も高く燃え上がっていました。
あらあら、と思っていると、突然、私の右の方から聞いた事のある声で、素人の読むお経が聞こえて来ました。
うん?と思って見ると、そこには亡くなった父が座ってお経を読んでいました。

 父は開業医であり、カラオケなどもやらない人でしたし、正式にお経も習っていないので、私の供養で読むお経を聞きながら覚えたのでしょうか。
下手なお経だな~と思いながらも、心が温かくなりました。

 久々の再会でした。
以前に会ったのは、父の命日でした。
今日の父は、何だか幸せそうで安心しましたが、えらく若い姿でした。
亡くなった霊は、自分が一番輝いていると思う年齢に姿を変えると云います。
父は40代の頃の姿でした。

 多くの霊達の供養をしながら、父にも再会出来た、良いお彼岸でした。
これで暫くはまた御無沙汰となるでしょうが、有り難いハプニングだと思います。

悩みの原点

2006 - 09/23 [Sat] - 01:52

 人間の悩み、苦しみに直面する仕事をしていると、人は本当にそれぞれ違う生き方、考え方をしていて、育った環境も違えば、して来た経験も異なり、属している社会も違うのだと思います。
ですから、私の様な仕事をしている者の鉄則は、まず肯定ありきで、その人を受入れて理解してあげる事が前提です。
まず否定ありきと云う考えでは、人は絶対に心を開いてくれません。
その人の心の声を聞いてあげる事、理解してあげる事が、信頼関係を作る第一歩です。

 相談者の殆どは悩んだり苦しんだりしている渦中で相談に来られます。
良く良く拝見し分析して行くと分るのですが、育った環境も考え方も価値観も視野も違うのに、殆どの人は同じ間違いをしておられます。
自分で、自分の心の中で、問題を複雑化して仕舞い、希望を失い、頑なとなって自分以外を否定し、揚句の果てに自分自身すら否定し始めます。

 どんな問題も、単純化すれば答はすぐに出ます。
眼に見えない霊や神仏の世界ですら、1+1=2なのです。
柔軟な目で、広い視野で、拘りを捨てれば、すぐに答は見えて来ます。

 今の自分の思いや考えが完璧だと思う人はいないでしょう。
自分には理解出来ないからと否定するのは愚かな行為でしかなく、己の視野の狭さや愚かさを露呈している事に気づいて下さい。

 今、出来ないからと云って、永遠に不可能なのでしょうか?
そんな訳はありません。
自分を過小評価しないで下さい。
人間には、頑張る力も、粘る力も、学ぶ力もあります。
一歩一歩積み重ねれば、大抵の不可能は可能となるでしょう。

 最初に否定ありき、諦めありきは、未来を狭め、希望を捨てる事です。
まず、受入れましょう。
そして、信じましょう。
自分を、そして、未来を。

被害妄想

2006 - 09/22 [Fri] - 01:47

 人は誰でもそうですが、一生懸命になり過ぎていたり、悩みや苦しみの中にある時、被害妄想になります。
なんの事はない、つまらない事が、自分を非難している様に感じたり、聞こえたりします。
善かれと思って言ってくれている人の言葉さえ「勝手な事を言ってる」とか「私を非難している」と聞こえて仕舞う事が良くあります。

 そんな時、逆の発想が出来たら良いですね。
誰かに注意された時、文句を言われたとか非難されたと思うのではなく、逆に「こんな仕事はしなくて良いんだ」とか「こう云う風にして良いのだ」と許可を貰ったと思う。
こうすれば良いと云う錦の御旗を貰ったのだから、大義名分がある訳です。
「だったら、そうすれば良いんだ」と都合良く解釈すると良いですね。
反発しても何の得にもなりません。
逆に、それを利用して自分のするべき事をして行く。

 目線を変えると、自分らしくなれるのではないでしょうかk?

 苦難は、試練は、次へのステップです。
萎縮して仕舞わないで、どうすれば自分らしくいられるか、少し目線を変えてみて下さい。
今より良くなる為に今がある、勉強だと思って下さい。
被害妄想になる時は、心が萎縮しています。
もう少し、良い意味でしたたかになってみましょう。

正論

2006 - 09/21 [Thu] - 01:47

 世の中には正論を述べる人がいます。
理想論、正論、確かに理屈としては正しい。
が、それが実際の社会で通用するかどうかは別問題。

 人間が生きる上で、間違いや曖昧、適当な嘘と云うものは付き物です。
全て正論、理想論、理屈では生きられません。
こうあるべき、こうでなければならない、と云うのは良いですが、そうではないものを否定して仕舞い、切り捨てようとする、認めようとしないとなると、人間関係は破綻します。
また、そうではない人の方が絶対的に多いのですから、それを見て孤独感を味わい、否定感に嘖まれ、自分自身を痛める事になります。

 誰でも悩みや苦しみの中にある時、自己弁護の本能や自己保護欲から、他に責任転嫁し、他を非難し、否定し、そこから抜けられなくなって自分自身を嘖み始めます。
正論や理想論にしがみつく事で、現実社会とのギャップに苦しめられるのです。
また、その正論や理想論が正しければ良いのですが、勝手な思い込みと云う場合も多いですしね。

 人はそれぞれ、十人十色です。
価値観も違えば、考え方も、視野も、育った環境も、属している社会も、そして生き方も、それぞれその人だけのものであり、全て違います。
逆に、同じだったら怖いし、面白くないですよね。

 自分が自分の理想に従うのは良いですが、他にそれを求め、押し付け始めると、人は自ら孤独となり、苦しむ事になります。
相手との適度な心理的距離感を保ち、人間の個性を認めて干渉し過ぎない様にすると、楽になる事も多いでしょう。

 正しかろうと間違ってようと、自分がそうしているのは勝手です。
人に明らかな迷惑をかけていなければ。
ですが、自己の価値観だけで他を計る事は、苦しみへの道筋です。
大らかになりましょう。

時を越えて

2006 - 09/20 [Wed] - 03:17

 人間には長い歴史があります。
その中には色々な事が起こって来ました。
消し去りたい歴史もあれば、残しておきたいものも沢山あります。
が、これは私の持論ですが、人間の歴史に無駄なものは一つもないと思っています。
暗黒の時代、不毛の時代、輝かしい時代、全ての時代とその中に生れて消えて行った物や文化や知恵があるからこそ、今の時代があります。
そこには、教訓もあれば、反面教師となる様なものもあり、人類が越えるべき試練もあったでしょう。
歴史は知恵の宝庫であり、教訓の宝庫です。
時を越えて、それらは我々に語りかけてくれます。

 特に若者に多いのですが、古さを極端に嫌う傾向があります。
古いものは捨て去るべきもの、忘れるべきもの、意味のないものと片づけて仕舞う。
それが進歩的であり、良い事なのだと。
文明も、文化も、ある意味ではそうして古いものを否定しつつ変化して来ました。
そして、言葉も変り、服装も変わり、機械文明が発達し、流行を常に追い求めて来ました。

 しかし、その中には大切にしておきたいものも沢山あります。
忘れ去られた知恵と技術。
神秘学や心霊の世界、宗教の世界には秘伝・秘奥・秘教と云うものが数多く存在しています。
また、アンティーク、つまり骨董の世界は好事家の間で大切に守られています。

 人間の考える事など、たかが知れています。
長い歴史の中で一見忘れ去られた事が、現代に新しいものと思われて甦る事は沢山あります。
新しいと思っていたものが、実は数千年前に同じ事が起きていたり、存在していた。
笑えますね。

 大切な古き良きもの、それは何にでも存在します。
そこから得るインスピレーションと知恵と技術を知る事は、新しい時代への近道かもしれません。
時には、そう云う眼で見てみるのも良いものではないでしょうか?
老人の昔話や知恵を聞いてみるのも良いですね。
古くからの伝統的なものを知るのも良いですね。

 視野を広げ、心を開いてみてはどうでしょうか?

呼吸

2006 - 09/19 [Tue] - 01:16

 人間は誰でも呼吸をしていて、人それぞれのリズムがあるものです。
が、時としてそれが乱れる事がありますね。
呼吸が乱れる、リズムが乱れる。
誰でも経験あると思います。

 例えば、感情が高ぶった時。

 また、ストレスでクタクタになった時。

 運動していて、息があがって仕舞う時。

 我々で云えば、被った時。

 また、目的意識を見失った時(無意識にでも)、リズムが狂います。

 仕事をしていたり、勉強をしていたり、修行をしている時、本来の目的から段々と外れて仕舞っていて、それに気づかずに小さな事に拘りを持って仕舞っている時があります。

 例えば仕事は、良い商品を作り、それを消費者に届けて喜んで戴く、その結果として相応の対価を戴きます。
ですが、採算を度外視して良い商品を作る事だけに拘って仕舞ったらどうなるでしょうか?
また、対価だけを気にして仕舞って、利益率だけを追求していたら、商品は段々と駄目になって仕舞うでしょう。

 音楽であれば、音を楽しむのが目的です。
が、プロはいざ知らず趣味で音楽をやっている人が、良い音が・・・とか、間違えた・・・と云う所にばかり拘っていたら、音楽を楽しめないですね。

 勉強であれ、仕事であれ、修行であれ、目的意識がとても大切です。
流れの中で小さな事に拘り過ぎても、またいい加減になっても、本来の目的と外れて仕舞い、崩れて行きます。
そうすると、呼吸も乱れ、リズムも来るって来ます。

 社会も、人間関係も、体調も、精神も、全て良いバランスとリズムで協調した時、素敵なものになります。
不協和音は、全てを駄目にします。
その為にも、目的意識をしっかりと持って、正しいリズムで呼吸したいものですね。

仏と会話する

2006 - 09/18 [Mon] - 01:09

 仏様ってどんな方でしょうか?
そんな事を考えた事はあるでしょうか?

 色々な仏教の本が出版されていて、仏様の解説も書いてある本が沢山あります。
でも、それは儀軌と云って、仏の心はこうであり、姿形はこうである、と書かれているものです。
そんなもので、仏様の本当の姿、心が分かるでしょうか?
何だか、偉人伝を読んでいるのと同じだと思いませんか?

 仮に、仏様を人だと考えてみて下さい。
事実そうなのです。
大半の仏様は、かつて我々と同じ様に肉体を持ってこの世に生きて、修行して、仏の境地を得て、後世の人達に仏様として崇められて来た人達なのです。
そう、例えばお釈迦様の生きて居られた時代、2500年程前のインド・・・。
イメージしてみて下さい。

 人は付き合ってみなければ、話してみなければ、そして触れ合ってみなければ、決して理解出来ません。
人と人が理解し合うのは理屈だけではありません。
心と心、肌と肌で感じ合って、互いが受け取るインスピレーションが最も大切です。
仏様も同じです。
儀軌を幾ら読んでも、それは理屈でしかありません。
仏像を目の前にしても、それは形でしかありません。
そこに込められた祈り、想い、魂を感じ取り、会話してこそ、仏様の人となりを知る事が出来ます。

 祈りとは会話です。
言葉だけではなく、全身全霊で会話するのです。

 そうすると、仏様の望んで居られる事が分って来ます。
どうして欲しいのか、どうするべきなのか、心の中に浮かび上がって来ます。

 荘厳(しょうごん)と云う言葉があります。
仏教の世界では大切な作法です。
仏様を祀る為に行う、祭壇や寺院などの、法具や飾り物の配置など全てを必然と仏様の意思に依って決定して行くものです。

 お寺は天井が高いですね。
そして、仏様は中央の一番奥に安置され、そこを中心として全ての飾り物や法具が配置されています。
その理由は詳しくはここでは述べられませんが、人が仏様を崇め、有り難いと思う様に出来ています。
自然と手が合わさり、頭が下る様に。

 それをミニチュア化したものが仏壇です。
祭壇も同じですね。
ですから、最近、現代仏壇の様に家具調の物が出ていますが、私はああ云うものには否定的です。
仏壇はお寺と同じく、荘厳でなければいけないし、仏様のお住まいであるお寺を模していなければいけません。
当然、法具もそれに則った物を置くべきです。

 考えてみて下さい。
仮に2500年前に生きていた人(仏様)が、現代風の家や家具で落ち着いていられるでしょうか?
何だか居心地が悪いなぁ、と思われるのではないでしょうか?
目新しくて暫くは良いでしょうが、ずっとそこに住むのです。
やっぱり、住み慣れた雰囲気の方が良いのではないでしょうか?

 仏壇を選ぶ時、法具を選ぶ時、それは祈りの場である事、祭壇や仏壇の意味を良く考える事、そして何よりも仏様の意思を伺う事が大切です。
以前、お恥ずかしい話ですが、私も仏様に叱られた事があります。
もう20数年も前の事です。
御供えを仏様にあげようと思って、スイカを買って来て祭壇にあげました。
と、その夜の行で、こっぴどく叱られました。
「おい、大根をあげるな」と。(苦笑)
そう、植物学的に考えると、スイカは果物ではなく大根と同じなのです。
仏様の意思を無視し、現代の考え方で善かれと思った事ですが、大間違いでした。
相手をもてなす事、それが奉じると云う事であり、御祀りすると云う事です。
そう考えると、私の単なる独り善がりだった訳ですね。

 仏様は生きている。
過去に人としてこの世にあった人である。
それを忘れず、しっかりと会話して下さい。
独り善がりになっていないでしょうか?

Adept になる為に

2006 - 09/17 [Sun] - 02:19

 人は誰でも一生懸命になって仕舞うと、他の事が見えなくなる事が多いですね。
必死で頑張って、一生懸命になって、それ故に視野が狭くなって自分の世界にこもって仕舞う。
一芸に秀でた人は皆そうだし、それも一つの生き方だと思います。
しかし、ずっとそうだったら・・・、単なる変人でしかない。(と、思いませんか?)
「一芸に秀でる者は全てに通ず」と云いますが、そうなってこそ、人に評価もされるでしょうし、人としてのバランスも取れて来るのではないでしょうか?

 仕事は出来るけど、人としてはなぁ・・・、とか云う話は沢山あります。
逆に、人は良いのだけどなぁ・・・、と云う話も。(笑)

 人が成長する為、生きて行く為には、ある事に集中してこもったり、凝り固まる時期が一定期間は必要だと思います。
私で云えば、山籠りをはじめ、修行に全身全霊をかけた時期、空手だけに邁進した時期、片っ端から本を読み漁った時期があります。
また、精神的・心理的にも、男はこうあらねばならない、人はこうあらねばならない、修行者とは・・・、宗教とは・・・、武道家は・・・、と、徹底して凝り固まった時期もあります。
そう云う時期を越えて、段々と視野も価値観も広がって、肩の力が抜けて今があります。

 一生懸命、必死になった事がない人は、一時そう云う時期を過してみる事は必須です。
その結果、これだけは人に負けないと何か一つでも自分が誇りを持てる様になる事が必要ですね。
社会で生きている以上は、仕事が出来なければ評価されませんし、そうでなくても、熱くなれるものを持たない人間は魅力がありません。
そう云う時期を通して、人としての信念や確信が生れて来ます。

 そして、そう云う時期を過した人は、今はそうではないのに、その時代に囚われていて、抜けられずにいないか、自分を確かめる必要があります。
もう確信も誇りも持っているのに、いつまでも肩に力を入れて突っ張っているのは、幼く見えますし、疲れるだけです。
そろそろ肩の力を抜いても良いのではないだろうか?と自分を振り返ってみて下さい。

 硬軟、剛柔、両方を経験してバランスが取れた時、きっとアデプトへの一歩を踏み出していると思います。
徹底的に拘り、一生懸命になり、必死になって、その後に段々と力を抜きましょう。

自分を護る

2006 - 09/16 [Sat] - 01:57

 人と云うのは、誰でもそうだが、窮地に立つと自己保身に躍起になる。
身を護ろうとするのは、動物でも人間でも同じだが、社会性のある人間には自己保身の術と云うのはとても大切な要素の一つであると思う。

 が、そこで多くの人は間違いを犯す。
自己を護ろうとするが故に、他を非難して貶めたり、オタオタと姑息に立ち回ろうとする人が多い。
それで一見、問題が収まったかの様に見える。
が、実は全く逆。
人と云うものは愚かではない。
そう云う姿を見て、心の中では見切って仕舞う。
所詮、あれだけの器か、腹の据わらない奴だ、低俗だ、品性下劣だ、、、、、と。

 本当の意味で自身を護ろうと思うならば、自分の中にある信念に従えば良いし、毅然としていれば良い。
他を批判する事も、貶める事も、必要ないし、それは自らの器量の小ささと愚かさを他に対して露呈して仕舞う事になる。
やっている本人は気づかないのだろうが、見ていると哀れになる。
そう云う時の精神のエネルギーはとても大きい。
故に、空回りする事で、自らの精神と肉体を痛め付けて仕舞う。
結果、病に侵されたり、体調を崩す人も多い。
ストレスだそうだ。(笑)
自ら、自分に対してストレスを与えている事に気づかないのだ。

 井の中の蛙、大海を見ず、と云う。
自己保身の強い人は、真の意味でも覚悟も、信念も持っていない。
故に、自分の世界でのみ物を見、考え、そこに沈んで行く。
そして、オタオタと姑息な事を考えたり、見境なく人の悪口を云ったりし始める。

 どんな生き方をしても、賛否両論あり、色々な意見があるだろう。
それに振り回されていては何も出来ないし、風見鶏でしかない。
タイミングはあるが、毅然とするべきはして、自己の信念を曲げてはいけない。
信念を持っていれば?であるが。

 人を批評するのは良いが、批判はするべきではない。
それは己を貶める事でしかない。

 本と運自分を護ると云う事は、信念の通りに、毅然として生き、歩む事ではないだろうか。

飲酒運転

2006 - 09/15 [Fri] - 02:31

 ここの所、やたらとニュースで飲酒運転による事故の話題が流れていますね。
飲酒運転が増えたのでしょうか?
それとも、それによる事故が増えたのでしょうか?
マスコミの報道が増えたのでしょうか?
何れにしろ、最近のニュースでは流れない日はないと云っても良い位です。

 私も車は好きです。
18歳の時に免許を取ってから、修行時代は自分で運転して瀧やあちこちの寺社に参ったりしたものです。
時には、かなりのスピード違反をした事もあります。(もう時効ですが)
しかし、飲酒運転だけはした事がありません。
法律で決まっているからではなく、自動車は常に凶器と紙一重だと思っていたからです。
そう、空手をやっていて、自分の肉体が凶器になるのと同じです。
空手も運転も、とても楽しい。
でも、同時に私は常に恐怖感を持っています。
一つ間違えたら、人を死に至らしめる、と。

 私は今は一滴もお酒を口にしません。
が、20代の頃は浴びていました。
一生分、飲んだでしょうか。(苦笑)
そして、この仕事をプロとして始めた時に、止めました。
この仕事は24時間、どんな相談がいつ来るかもしれない。
ですから、お酒を口にする事で、一部でも鈍っていると判断ミスをするかもしれない。
そう思ったからです。

 話はズレて仕舞いましたが、法律でも謳っている様に事故を起すと「業務上過失」です。
つまり、運転すると云う事は、遊びではなく業務なのです。
運転席に座ったら、その瞬間からプロのドライバーにならなければいけません。
プロのドライバーが、酒気帯びで運転するなどあり得ない事です。
飲酒運転をする人間は、許し難い、最低の人間です。
無謀運転をする人間も同じ。
運転する資格はありません。


 私の個人的な意見ですが、酒気帯び違反をした人間は、即刻、社会的制裁を受けるべきです。
会社をクビになり、取引先から切られ、公的な免許も取り上げられる。
それ位に厳しくするべきなのだろうと思います。
事故が起きなければ良い、捕まらなかったからラッキー、そんな風潮が日本にある事自体が、運転と云うものに対する意識を低下させているのではないでしょうか。
法は破る為にあるなどと下らない理屈を言う人もいます。
全く、バカげた話であり、社会で生き、生かされている事を忘れている人間の言葉です。

 また、ハイテクの時代なのですから、法律で、全ての自動車にアルコール検知装置を付け、呼気にアルコールが混じっていたらエンジンがかからない様にするとか、そう云うものが必要なのだと思います。

 人間の良心を信じたいと思います。
基本的に私は性善説の信奉者です。
が、現実の社会に於ては、それも通用しない事も多い様ですね。

与えられる

2006 - 09/14 [Thu] - 02:43

 修行は一生と云う。
その通りだと思う。
私はかなりの修行を長年して来たし、そこに誇りもあれば、自覚もあるつもりである。

 今日、妻と話していて大爆笑をした。
話の内容は弟子の話。
詳しい事は、多分、妻が「旦那様は霊能者」のブログで書くだろう。(笑)
で、何故笑ったかと云うと、それを通じて自分の姿を見せられたからである。
いやいや、大爆笑だった。
情けないと云うか、何だか気が抜けた。
仏は粋な事をしてくれる。
ちゃんと自分の姿を見せてくれ、示唆してくれる。
与えられたと感じる。
ありがたい。
と同時に、やはり笑える。(笑)

静かな夜

2006 - 09/13 [Wed] - 03:36

 今、外は雨が降っていて、雨音に混じって秋の虫の声が聞こえている。
いつもながら、もう夜中だ。(笑)
こう云う静かな夜は、色々な思いが広がる。
忘れていた事、大切な事、未来への夢、そして人の想い・・・。

 ある若者が最近、転職をして新しい職場で働いている。
掲示板で毎日の様に報告の書き込みをしてくれている。
頑張っている様子が良く分る。
うん、しっかり頑張れよ、と思う。

 だが、心配事が・・・。
この職場を紹介してくれた人、その人を紹介してくれた人への礼儀はきちんと果たしたのだろうか?
その人は、私の懇意にしている空手道場の師範と道場生だ。
就職を祝って食事会を開こうと仰っていた。
どうなっただろうか?
また、礼儀としても彼は道場へしっかりと行かなければいけない。
ちゃんと行っているのだろうか?

 こう云う大切な事をないがしろにして忘れて仕舞うと、人を裏切る事になる。
そう云えば、私にもメールは来ていなかったな・・・。
掲示板には書き込んでくれているけど。

 と、老婆心ながら思いを馳せている静かな夜。
皆の幸せをこの静かな夜に祈ろう。

夜の街

2006 - 09/11 [Mon] - 01:34

 今日は久々に夜の銀座で食事をしました。
母と妻と私と、弟子との4人で。

 たわいもない会話を楽しみながら食事し、夜の街を眺めていると、心がとても静かになりました。
ずっと昔から夜行族である私は、夜の街を眺めるのが好きです。
昔は、その中で飲んでいましたが、今は全くアルコールは嗜まないので、もっぱら眺めるだけですが、それもここ暫くは御無沙汰でした。

 夜景と云いますが、私は街のネオンの光、その下を行き交う人々、通り過ぎる車を眺めるのが好きです。
何も考えず、ただ何となく眺めていると、不思議と気持ちが静かになり、心が穏やかになって来ます。
そして、段々と精神が研ぎ澄まされて来ます。

 人にはそれぞれ、落ち着く場所や場面があると思います。
俗世に生きていると、そう云う事をつい忘れて仕舞うものです。
私も、久しく忘れていた気がします。

 色々な形のリフレッシュがありますが、今日の様なリラックスも忘れないでいたいものですね。

一人で思う

2006 - 09/10 [Sun] - 02:13

 人間と云うものは、悩みがある時、苦難の時、どうしても一人で思い悩んで仕舞うものだと思います。
その理由は、人に弱みを見せたくない。
また、どう相談したら良いか、誰に相談したら良いか、解らない。
さらに、相談しようと云う気力さえない。
そうやって悪循環して、どんどん悩みの渦の中に沈んで行きます。

 悩みと云うのは、ある意味では自己満足であり、マスターベーションの様なものです。
自分の心の中で、こうであるに違いない、こうあるべきだ、と決め付けて、だからどうしようもない、でも何とかしたい、と堂々巡りをします。
そんな事をしても全く無意味だし、時間の無駄だと思います。
結局は、どうしようもなくなって誰かに頼るか、時が解決してくれるか、それともどうしようもなくなる程に酷い状態まで行って仕舞う。

 一人の人間の知恵や知識など、どんなに頑張ってもたかが知れています。
3人寄れば文殊の知恵と云います。
まず身近に人、次に専門的な知識のある人に相談してみましょう。
どう云って良いか解らなくても構いません。
思いを素直に言葉にしてみれば良いのです。
きっと、相手は解ってくれます。

 一番いけないのは、まだ悪い事も起きていないのに、悪くなると決め付けたかの様に不安に嘖まれる事です。
悪くなっていないのであれば、本当に悪くならない様に対処すれば良いのです。
人の心と云うものは恐ろしいものです。
常にそう云う不安を持っていると、それが本当になって仕舞う事もあります。
決め付けてはいけません。
自らの明るさと、元気なパワーで、不安を吹き飛ばしましょう。
専門家の力を借りれば、より強力です。
思い切って相談しましょう。

仏像

2006 - 09/09 [Sat] - 02:34

 今日、仏像の話を弟子としていました。

 その弟子も、一人は不動明王と弁財天女をお祀りしており、もう一人は聖観音菩薩をお祀りしている。
彼等が仏様をお祀りしたいと云う時、私は彼等に口を酸っぱくして何度も云った言葉があります。

 「祀るなら、命を懸けてお祀りしなさい。返品は利かないぞ。もう拝みたくない、仏様に帰って欲しいと思っても、それは通らない。一生を懸けてお祀りする覚悟があるなら、良いよ。」

 仏像をお祀りする時、仏具屋さん等で売っている、並んでいる物を買って来て飾る人もいるでしょう。
そう、まるで美術品の様に。

 また、同じ様に買って来ても、お坊様や霊能者などに入魂して戴いてお祀りする人もいるでしょう。

 さらに、お願いして彫って戴いて、それをお祀りする人もいるでしょう。

 私の場合は、仏像を祀って良いよと云う許可を出すまで、長い時をかけます。
その人の本当の気持ち、覚悟を見極めた上で、これならきちんと祀る事が出来ると確信を持った時に、許可を出します。
それから本人の魂を霊視し、また家を霊視して、最も相応しい、御縁のある仏様を指定します。
その上で、仏師に依頼して、数ヶ月かけて新たに彫って戴きます。
その人の為だけに。
時には、姿形、彩色まで注文を出します。

 仏様は飾りではありません。
また、ただ祈るだけの対象でもありません。

 自分自身が、そうなるべき目標であり、魂の中に存在する自分自身の姿です。
勿論、祈れば力を貸してくれます。
助けてもくれます。
と同時に、試練や困難も与えてくれます。
本当の意味で、仏様に近づく為には多くの事を乗り越えねばなりません。
試練を、苦難を越えてこそ、本当に大きく成長出来るのですから、その為に必要な事を、必要な時に、仏様は与えてくれます。
真に入魂された仏像と云うものは、生きている仏様ですから、そう云うものです。

 ただ祀っているだけでは、そこに生きている仏様を無視し、物扱いしている事になります。
相手は生きているのですから、挨拶をし、会話をし、共に食し、共に飲んでこそ、本当にお付き合いが出来ます。
そして、誰よりも強い味方であり、理解者であり、同時に最も厳しい指導者でもあります。

 仏像を祀る事が出来ると云う事は、それだけでとても有り難い事です。
一から彫り込み、入魂し、場所を作って安置するのですから、費用もかかれば、家族の理解も必要です。
そう云う環境が調う事自体、とても幸運な事なのです。

 私が皆様にお授けする仏様、仏舎利には、祀る方が幸せになって欲しい、成長して欲しいと願う、私や仏師、関わった仏具屋さん、そして仏様自身の深い思いがこもっています。
既に祀られている方はもう一度気持ちを新たに、これから祀りたいと思っておられる方は、決心と覚悟を確かめてみて下さい。

会話

2006 - 09/08 [Fri] - 02:12

 暫く前に、私がロンドンより帰ってから、向うで世話になった義妹から電話があった。
家がまた問題を起したそうで、シャワーのポンプがガタガタと音がし始めたと云う。
思えば、向うでシャワーを借りた時、確かに水圧が低かった様な気がしなくもないが。
その時は別の問題、シャワー室の床が水漏れしていて、下の階の天井に染みが出来ていたので、そっちが大問題だったから気づかなかった。

 何しろ住んでいる家はとても古い家であり、少しずつリフォームしながら住んでいる。
私が見た所、家そのものが古さ故か一つの意思を持っている様にさえ感じた。
それはそこに住む人間と共存する為にあり、住む人間の意識がとても大切に思えた。

 私も古い車に乗っている。
毎年、12ヶ月点検や車検で少しずつ修理し、今は快調に走っている。
しかし新しい車ではないので、撫でる様に、無理をさせない様に、エンジンの音を聞きながら、振動を足の裏とお尻で感じながら走っている。
昔の車は音と振動で調子が解ったものだ。
今の車は余りにもテクノロジーが進んで仕舞ったので、感じ難くなって仕舞っている気がする。
そう云う意味でも、私は古い車に乗っていて楽しいと思う。
車と会話し、触れ合いながら、一緒にドライブを楽しむ。

 義妹の家も同じだろう。
一緒に生活して行こうと云う気持ちで住む事で快適な住居になって行くと思う。

 テクノロジーが進む事は人間の生活を便利にして来た。
同時に、それは人間の感覚を鈍らせて来た気がする。
素晴しいハイテクノロジー、美しいデザイン。
それはそれで素敵だと思う。
が、人間の持つ本能的な感性は、そんな所にはないのではなかろうかと思う。
そのものと会話し、触れ合う事の出来る物、そんな物が本当に人間に優しく、一生使える物なのではないだろうか。
私が別のブログに載せている物でも、最高の物と思って載せた逸品はやはりある意味ではローテクノロジーであり、伝統的な物である。
凄く優しい感じがする物ばかりである。

 そんな、物と会話する感覚を大切にしていれば、きっと人とも上手く会話出来る様になるであろうし、心が豊かになり、情緒も安定し、素敵な人になれるのではないかと思います。

お慶び申し上げます

2006 - 09/07 [Thu] - 01:36

 秋篠宮、紀子妃殿下御夫妻に3番目の、そして41年ぶりの親王様が御誕生になられました。

 心より。お慶びを申し上げると共に、御夫妻並びに親王様の御健康とお幸せをお祈り申し上げます。

 かねてよりの皇室、皇族の方々への、世間や政治の世界での様々な雑音に対し、この度の事が一つの区切りとなり、落ち着く事を心より祈っています。
日本国憲法条では天皇並びに天皇家は、あくまでも象徴です。
が、国民の心情、また神の世界から見た時、日本はやはり皇室国家であると思っています。
皇室、皇族に対しての様々な雑音、平穏が乱れる事は即ち国の乱れに繋がると思います。

 今後は静かに、穏やかにして戴きたいものだと思います。

熱い思い

2006 - 09/06 [Wed] - 03:30

 人には色々なこだわりがあり、生きて来た背景があり、思想もあれば、思いもあります。
それが時としてすれ違い、ズレる事があります。
今日はそんな日でした。

 が、話を聞いていると、それぞれが自分なりの思いをぶつけ、一生懸命でした。
皆、熱い思いを持っているからこその事だったと思います。

 起きたすれ違いは、それはそれとして、そう云う熱さが良いですね。
そんな火花の中から、大きく輝く光りが見えて来ると思います。

 強い思いと信念。
素敵ですね。

 今日はイギリスの写真の最終回。
今後は、英国旅行記を対談のブログの方で暫く載せます。
そちらでまた写真を載せますので、こちらと重なるものもあるでしょうが、ご覧になって下さい。

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勢いのある時

2006 - 09/05 [Tue] - 03:20

 今日、数名の参加者に対して護身法の補講を行った。
それぞれが仕事の関係で月例会の日に来る事が出来ず、別の日にと云う事で、図らずも今日に集まって仕舞った。
初級と上級が同席したが、初級の人にはお得な日になったかもしれない。
上級のやっている事を遠目に見聞きする事があっても、こう云う機会はあまりないのだから。

 その後で色々と話をしていたが、皆がとても積極的であり、夢を持ち、勢いがあって、とても楽しい時間となった。
話も弾み、コミュニケーションとはかくあるべしと云う思いがした。
教える、教わる、学ぶと云う場面においても、コミュニケーションが互いになければ一方通行であり、気持ちが萎えて仕舞う。
彼等の持っている精神の活性と、俊敏さ、何よりも積極的で前向きである事は、それだけ学ぶ機会、吸収する機会を増やし、成長への道筋となるだろうと思う。
そして、何よりも楽しそうだ。
修行も、学びも、そして人生も楽しまなければ。
苦難や悩みさえも楽しめる様になれたら、人生と達人だと思う。

 今日は、バースと云う古い町の風景を。
バース寺院、そして、文字通りのバス。
ローマ帝国の遺物である、今で云えばスパだろうか。
圧巻だった。

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目に見えない物の影響

2006 - 09/04 [Mon] - 02:25

 車に乗ると人格が変わると云う人がいる。
普段は大人しいのに、運転を始めると怒鳴ったり、物凄く荒っぽい運転をしたり。

 また、突然に機嫌が悪くなったり、感情的になったりする人がいる。
霊感もないのに、である。
理由は自分でも全く分らないらしい。
ある場所に行くとそうなると云う。

 肉を食べると、特に牛肉を食べると、感情的になりやすくなる。
私もその一人であり、妻から牛肉禁止令が出ている。(苦笑)
そう云えば、昔、空手の試合の前には牛肉をしこたま食して、戦闘的な気分を盛り上げたものだった。
何と云うか、血が熱くなる。

 目に見えないものの影響と云うものは、思いの他、人間は受けている。
磁力、電磁波、匂い、空気、食べた物、イオン、気圧、温度、・・・。

 今日、印刷をしていて長い時間、プリンターが動いていた。
それも2台。
インクジェットなので、大量印刷をしようと思うとどうしても長い時間がかかる。
で、2台のプリンターを同時に使うのだが、そうするとどう云う訳か猛烈に疲労感が出て来て、眠くなる。
プリンターが動く事で発生する電磁波の影響だろうと思う。
それ以外にも、プリンターから出る音。
そう云うものが肉体にも精神にも影響するのだろう。

 自動車の場合は、一番問題となるのは静電気。
静電気の溜った、触るとバチバチ云う様な車の場合は、やはり精神に影響を与える様だ。
それで車に乗ると人格が変わると云う人がいるのだろう。
それだけ、その人は感覚が鋭いと云う事だろうか?

 また、高圧電流の近くでは電磁波が発生している。
だから、ある場所に行くと感情が激し易くなったりするのかもしれないし、実際に体調も崩れるだろうと思う。

 瀧に行くと心が休まる。
水の落ちる音、そして水が物に当る時に発生するマイナスイオンの影響だと思う。

 人は色々な目に見えない物の影響を受けている。
環境と云うものを意識する事、またコントロールする事はとても大切な事だと思う。

 確かに、霊のいる場所には住みたくないですよね。
マイナスのエネルギーに満ちていて、生命力を取られて仕舞いますからね。

 今回訪れたストーン・ヘッジでも、強い磁場と気の流れを感じる事が出来ました。
写真を見ていても、伝わって来ます。
皆さんは、感じる事が出来るでしょうか?

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楽しい人生

2006 - 09/03 [Sun] - 03:10

 暫く霊能者と云う事について書いて来ましたが、今日は人生のお話を。

 人生は何の為にあるのでしょうか?
人によって答は違うでしょう。
誰かの為、努力する為、苦しむ為、働く為、目的を達成する為・・・。

 私の考えは、「人生は楽しむ為にある」です。

 確かに人は修行する為に生れて来ます。
自分で親を決め、この親の許で自らの弱さを克服し、因縁を解消し、学んで、魂の昇華をはかる為に生れます。
ですが、修行は楽しくなければ続きません。
楽しくないから、途中で投げ出したくなるし、怠けたくなるのです。
人生は修行です。
だからこそ、それを全うする為に、如何に楽しく生きる事が出来るか、考えましょう。

 広い心と眼で世の中を見渡せば、楽しい事や面白い事は幾らでも転がっています。
自分の目の前にも沢山ある筈です。
閉ざした心がそれらを見る事を拒否しているだけです。
心を開き、眼を見開いてみて下さい。

 今日は、ロンドンで乗った乗り物や駅の風景です。
ちなみに、バスに乗って並んで座っている二人の男の子は私の甥達です。
この次はいつ会いに行けるでしょうか・・・。

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霊能者の持つパワー

2006 - 09/02 [Sat] - 02:33

 霊能者は、特にプロフェッショナルは、常人とは違う強いパワーを持つ事が多い。
曰く、感情が激した時に家の中の金物が全て曲がった。
また、電気製品が壊れた。
側に居る人が、急に気持ち悪くなった。
物が動いた。
等々と、普通では考えられない事が次々と起こる。

 伊達に生死を目の前にして仕事している訳ではないし、伊達に修行している訳ではない。
長年の修行に加え、相談者に対して真剣に、時に命がけで向き合っているのだから。
また、霊能者に取って被りは日常茶飯事。
それは、被る事によって、相手の心の奥底に潜む悲しみや苦しみを共有するのだから。
被る事は、霊能者に取ってはとても有り難い事である。
しかし、被りは体力を奪い、気力を奪う。
時には命に関わる事さえある。
それほど、激しく体調や精神状態に影響する。
だが、そうやって霊や相談者と共通体験を持つ事で、問題の本質を見抜き、分析し、痛みを分かち合う。
毎日、そうやって生きていれば、嫌でもパワーは強くなる。
真剣勝負の日々なのだから。

 そして、そう云うパワーを持つからこそ、誰よりも優しくもなれば、誰よりも厳しくもなる。
霊能者がそうやって向き合っているのだから、相談する側も真剣であって欲しいと思う。
誰の人生でもない、自分自身の人生なのだから。
最良、最高と信じて、霊能者は語る。
その言葉を、頭ではなく心で受け止めて欲しいと、常々思っている。

 今日は、テームズ川をクルージングした時の写真です。
川から見る風景は、また違った趣がありました。

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霊の話と霊能者との付き合い方

2006 - 09/01 [Fri] - 02:09

 今回、心霊協会を訪れ、またライブラリを見ていて思うのだが、霊の話は難しく理屈をつけようと思えば幾らでも書く事が出来るし、話す事が出来る。
私が修行して来た密教や神道、また西洋魔術や占術、幾多の宗教を私は学んだが、全て煩雑な作法もあれば、理論・理屈がある。
それを一つずつひも解いて話したり書いたりする事は決して難しい事ではなく、むしろ安易である。
何故安易であるかと云うと、それは事実として、また研究対象としての追求であり、一つの学問体系としての姿であるからである。
学問がそのまま人を救う事にはならない。
難しい言葉や理論を幾ら語っても、それは良い話だっただけであり、人が生きて行く上で役には立たないだろう。
人が何かを感じ、何かを得る為には、聞く人や読む人の解る言葉で話したり書いたりしなければ、何も伝わらない。
どれだけ多くの言葉と文字を費やしても、伝わらなければ、それは学問でしかない。
人を救うと云う目的の為にこそ、秘教も密教も神道も西洋魔術も占術も、そして世界中にある宗教も存在している。
深く追求する事は大切であるし、知っていなければならない。
が、それは研究者やプロフェッショナルだけで良い。
一般の人に向けてそれをさも偉そうに話しても、書いても、意味がない。

 そして、現実的な話をする時、我々霊能者は自らの信念と、相手を心底から思う故に、言葉がきつくなったり、高圧的に見られる様な言動をする事がある。
時にそれは傲慢と映り、高圧的であると見られる事もあるだろう。
が、だからと云ってプロフェッショナルな霊能者達が姿勢を変えて、相談者に媚びる必要はない。
善かれと思っているからこそ、そこに情もあれば、感情的になる事もある。
信念に従って、思う事を云えば良いし、正しいと思う事、信じる事を、相談者にぶつければ良い。

 一面的な見方をすれば、確かに霊能者は傲慢である。
それは、自らの血と汗と、常に死を目前にした修行を修め、霊と対話する事で常に生死の狭間に生きているからである。
常に覚悟して生きている。
相談者の為であれば命をいつでも捨てる覚悟をしているからこそ、常に真剣であり、命がけであり、故に傲慢な態度と映る事が多々あるだろう。

 しかし、選ぶのは相談者である。
霊能者に相談すると云う事は、物を買うのとは違う。
お客様と大きな顔をしたのであれば、霊能者や占師などの所に来なければ良い。
プロフェッショナルなアドバイザーは、常に人生の先達であり、そこに来る相談者は常に教えを請うのである。
その関係を善しととしない方は、そう云う所へ行かれない方が良いであろう。
そして、受けたアドバイスや指導が納得出来ないのであれば、違う所を探すべきである。
合わない学校を転校するのと同じである。
しかし、そこに決めるならば、心から信じ、素直になる事である。
その上で起こる事、善かれ悪しかれは甘んじて受けるしかない。

 今日の写真はオックスフォードです。
教会、紋章、街の看板、そして偶然であったオックスフォードのキャンパスでのウェディングの風景です。


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プロフィール

島津 成晃

Author:島津 成晃
Adept・Mentor 島津相談室主宰
人生のあらゆる問題の相談に乗って来ました。
元気になって希望を持って帰って戴く事が私の願いです。
スピリチュアルな目と、冷静な分析で御相談に乗ります。
御相談はHPの方からお願いします


関連ブログです。
Adept・Mentor 島津成晃の独り言
Mentor 島津成晃の独り言

だんな様は霊能力者
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